承久の乱後、北条氏が行った論功行賞の中身とは?
鬼滅の戦史107
佐々木信綱と芝田兼義の渡河先陣争いの行方

重要局面に関わる北条義時の弟・北条時房。『星月夜 鎌倉見聞誌』/国立国会図書館蔵
また、6月17日には、六波羅において、勇士らの勲功についての話し合いが持たれた。この時の特筆すべき話題が、誰が宇治川を先に渡河したかについてであった。論戦を闘わせたのは、先の佐々木信綱と芝田兼義である。
両名は時房・泰時を前にして、激しく対立。信綱が「先陣とは、敵陣に入った時のことである。馬を河に入れた時は芝田が先だったかもしれないが、着岸したのは私が先だ」と言うや、兼義は「佐々木が河を越えることができたのは、私が導いたからである」として、とうとう決着がつかなかった。
そこで、春日貞幸(かすがさだゆき)に証言を求めると、「佐々木の馬は二人の馬の頭より鞭の長さほど先にいました」との起請文を提出。泰時はこの一文を読んで、「言い争うのはよくない」とたしなめたとか。ただしその後の沙汰は、関東の判断に委ねたようである。

北陸道軍を率いて入京する北条朝時。『義烈百人一首』緑亭川柳画/国文学研究資料館蔵
なお、先に入京した東海道・東山道軍に続いて、北条朝時率いる北陸道軍も、6月17日から20日にかけて入京を果たしている。半月ほど前の5月30日に、宮崎定範(みやざきさだのり)が守る蒲原(かんばら)や、越中の宮崎城を突破。6月9日に越中国と加賀国の国境にそびえる砺波(となみ)山をも制して京を目指してきたのであった。
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